冬の足音が聞こえ始めた11月の終わり、前橋市政に激震が走りました。 「ホテル密会」という、あまりにセンセーショナルな見出しとともに報じられたスキャンダル。その渦中にいた小川晶前市長が、ついに辞職を選びました。
初の女性市長として、そして「市民派」として期待を集めていた彼女の退場劇。しかし、私がこのニュースを追いかけていて何より気になったのは、辞職そのものよりも、その後の彼女の振る舞いです。
もっと言えば、彼女がSNSで見せる「あまりにも美しい去り際」と、かつて世間を騒がせた別の市長とのコントラストが、どうにも頭から離れないのです。今回は、前橋市の小川氏と、伊東市の田久保氏。二人の女性元市長がSNSで見せた“決定的な違い”について、深掘りしてみたいと思います。
辞職後のSNSに見る「美しすぎる」幕引き
まず、事の経緯を整理しましょう。小川氏が辞職に追い込まれた直接の原因は、週刊誌『NEWSポストセブン』による報道でした。
「ホテル密会」報道と突然の辞職
相手は市教育委員会の幹部男性。しかも既婚者です。市内の宿泊施設で複数回にわたり密会していたという事実は、彼女が築き上げてきたクリーンなイメージを一瞬で崩壊させるには十分すぎる破壊力を持っていました。
普通なら、ここで沈黙します。嵐が過ぎ去るのをじっと待つのが、危機管理のセオリーだからです。しかし、小川氏は違いました。辞職直前の11月25日、彼女は自身のインスタグラムに一枚の写真を投稿します。突き抜けるような青空と、前橋市役所。
批判を封じる「前橋愛」の連呼
その写真に添えられた言葉は、あまりにも詩的でした。 《昨日の夕方の前橋の空。秋の空も綺麗です。私はこの前橋が大好きです。》
このタイミングで「大好きです」と言えるメンタル。これは単なる感傷でしょうか。それとも、計算されたメッセージなのでしょうか。さらに辞職を報告した27日の投稿では、市民と思われる人々と笑顔で交流する写真とともに、こう綴っています。
《皆さまから教えていただいた「前橋愛」を、これから先もずっと大切にしていきます。》
まるで映画のラストシーンのような、美しい言葉の数々。スキャンダルのドロドロとした湿り気はそこには微塵もなく、あるのは「愛する街を去らざるを得なかった悲劇のヒロイン」のような空気感です。
「丁寧な暮らし」でイメージを上書きする戦略
驚くべきは、その翌日からの投稿です。辞職した翌日といえば、普通は心身ともに憔悴しきっているはず。しかし、彼女のSNSは止まりません。
翌日から始まった「一市民」としてのアピール
11月28日、色づいたイチョウの写真とともに投稿されたのは、再出発の宣言でした。
《前橋での新しい一日が始まりました。》 《肩書きが変わっても、前橋で生きていく一人として、地域の息づかいや日々の風景を大切に過ごしていきたいと思います。》
そして29日には紅葉の写真。《前橋で生きていく一人として、日々を丁寧に過ごしてまいります。私は、この前橋が本当に好きです。》
「前橋で生きていく一人」。このフレーズ、気になりませんか? これまで市長という高みから街を見ていた人物が、一瞬にして一市民という平場に降りてきたことを強調する。それも、とても謙虚に、丁寧に。
情緒的な言葉選びに見る高度な計算
ある地方紙の記者が指摘するように、これらの文章は非常に分かりやすく、市民の感情に訴えかける力を持っています。「ラブホ騒動」というネガティブなワードを、「前橋愛」「季節の彩り」「丁寧な暮らし」という柔らかく美しい言葉で上書きしようとしているかのような……そんな意図すら感じてしまうのです。
実際、コメント欄には好意的な意見が並んでいるといいます。「応援しています」「待っています」そんな声が寄せられるのは、彼女がこれまで築いてきた地盤があるからこそですが、同時にこのSNS戦略が功を奏している証拠とも言えるでしょう。
記憶に新しい“もう一人の女性市長”との対比
ここで、どうしても比較したくなる人物がいます。伊東市の前市長、田久保眞紀氏(55)です。彼女もまた、市長の座を追われた女性政治家の一人。しかし、その去り際、そしてSNSでの振る舞いは、小川氏とはまるで正反対のものでした。
伊東市・田久保前市長の「奔放すぎる」SNS
田久保氏は学歴問題などで2度の不信任決議を受け、最終的に失職しました。その渦中、彼女がX(旧Twitter)に投稿した内容は、今思い出しても強烈です。
《イジワルな質問もいろいろされましたしお腹が空きましたー。》
記者からの厳しい追及をイジワルな質問と切り捨て、「お腹が空いた」と結ぶ。このあっけらかんとした態度。自撮り写真を連日アップし、自分自身の生活を楽しんでいる様子を隠そうともしない姿勢は、ある種の清々しさすら感じさせました。
『負けないで』熱唱動画が残した強烈な違和感
極めつけは、辞職後の投稿でしょう。《何かとマスコミに叩かれてお互い大変ですが》と前置きしつつ、なんと彼女自身がZARDの名曲『負けないで』を熱唱する動画をアップしたのです。
想像してみてください。スキャンダルで職を追われた市長が、カラオケで「負けないで」と歌う姿を。そこには反省や市民への謝罪といった湿っぽい感情は見当たりません。あるのは圧倒的な自己肯定感と、ある種の開き直りです。
「外向きの愛」と「内向きの愛」の決定的な差
小川氏と田久保氏。二人の投稿を見比べてみると、SNSというツールの使い方がまるで違うことに気づかされます。
ターゲットを明確にした小川氏のブランディング
小川氏の投稿は、徹底して外向きです。写真は美しくトリミングされた風景。文章は推敲を重ねたであろう、詩的な日本語。「私は前橋が好き」「市民に感謝している」というメッセージを、誰に向けて発信すべきかを完璧に理解しています。それは、傷ついた自身のブランドイメージを修復するための、極めて高度なポリティカル・コミュニケーションに見えます。
感情を垂れ流した田久保氏の人間臭さ
一方、田久保氏の投稿は、どこまでも内向きであり、同時に自分本位です。「私はいじめられている」「私はお腹が空いた」「私は歌いたい」。
そこにあるのは、他者からどう見られるかという計算ではなく、自分の感情をそのまま垂れ流すという行為そのものですメンタルが強すぎる,自分大好きすぎると揶揄されるのも無理はありませんが、ある意味で裏表のない、人間臭い姿だとも言えます。
その「愛」は再出馬への切符になるのか
ここで一つの疑問が浮かびます。小川氏が連呼する「前橋愛」は、果たして純粋な郷土愛だけによるものなのでしょうか。
2026年市長選を見据えた布石の可能性
2026年1月には、前橋市長選が行われます。彼女はまだ、再出馬について明言していません。しかし、このタイミングで「一市民として生きていく」と宣言し、支持者との絆を確認するような投稿を続ける姿を見ていると、どうしても次を見据えているのではないかと勘繰りたくなります。
スキャンダルで一度は地に落ちた評判。それを「過ちを犯したが、それでもこの街を愛し続ける一人の人間」というストーリーに書き換えることができれば、再起の可能性はゼロではありません。日本人は、判官贔屓(ほうがんびいき)というか、一度失敗した人間が健気に頑張る姿に弱いところがありますから。
「言葉」で武装する政治家の巧みさと危うさ
小川氏の投稿を見ていて感じるのは、彼女が言葉の力を知り尽くしているということです。地域の息づかい、季節の彩り、穏やかな夜。こういった情緒的な言葉は、論理的な批判をかわす効果があります。
「不倫じゃないか」「説明責任はどうした」という鋭い刃も、ふわりとしたオブラートのような美しい日本語の前では、どこか切れ味を鈍らせてしまうのです。対して田久保氏の言葉は、あまりに生々しすぎました。「イジワル」「お腹空いた」それは子供の言い訳のようにも聞こえ、公人としての資質を問われる格好の材料となってしまいました。
しかし、逆説的ですが、田久保氏の言葉には嘘がなかったようにも思えます。小川氏の言葉は美しい。けれど、あまりに整いすぎているがゆえに、ふとした瞬間に本心はどこにあるんだろう?という不安を抱かせます。
まとめ:画面越しの真実を見極めるために
SNSは、その人の本性を映し出す鏡だと言われます。しかし同時に、好きな自分を演出できる舞台でもあります。
小川晶氏と田久保眞紀氏。スキャンダルによって市長の座を追われた二人の女性。一人は美しい言葉で物語を紡ぎ、もう一人は欲望のままに自我をさらけ出しました。どちらが政治家として、あるいは人間として魅力的か。それは受け取る側の価値観によるでしょう。
ただ一つ確かなのは、私たちはスマホの画面越しに見える切り取られた一部だけで、その人のすべてを判断してしまいがちだということです。美しい紅葉の写真に「いいね」を押す前に、そのフレームの外側にある、写らなかった(あるいは写さなかった)真実について、少しだけ思いを馳せてみる。そんな冷静さが、今の私たちには必要なのかもしれません。
前橋の夜は、今日も穏やかに更けていきます。その静寂の中で、元市長は今、何を思い、どんな言葉を紡ごうとしているのでしょうか。次の投稿が、単なる映え写真ではないことを、そしてその「愛」が本物であることを、一人の野次馬として、そして一人の有権者として、静かに見守りたいと思います。
