虚構の座に固執する権力者の暴走 !伊東市・田久保市長「大義なき議会解散」が日本の地方自治に突き付けた刃

静岡県伊東市が、前代未聞の政治的混乱の渦中にある。田久保眞紀市長が、自らの学歴詐称疑惑を巡り市議会から突き付けられた全会一致の不信任決議に対し、辞職ではなく議会の解散という強硬手段で応じたからだ。これは政策対立を起因としない、市長個人の資質問題が引き起こした異例の事態であり、「大義なき解散」との批判が噴出している。一個人の問題がなぜ、市政全体の機能を麻痺させ、市民生活を犠牲にするほどの事態に発展したのか。その疑惑の核心から、権力行使の危うさ、そして日本の地方自治が抱える構造的問題までを徹底的に深掘りする。

目次

序章:風光明媚な温泉郷を覆う、不信と停滞の暗雲


紺碧の相模灘を望み、豊かな温泉が絶え間なく湧き出る伊東市。徳川家光の時代には英国人ウィリアム・アダムス(三浦按針)が日本初の洋式帆船を建造した歴史の舞台でもあり、その名は風光明媚な観光地として全国に知られている。しかし今、この穏やかな街は、一人の市長が引き起こした前代未聞の政治的混乱によって、その誇りと未来を大きく揺さぶられている。

伊東市、田久保眞紀市長。彼女が自らの「学歴詐称」という、政治家としてあるまじき疑惑に端を発する市議会の不信任決議に対し、地方自治法に定められた首長の最終権限である「議会の解散」をもって応じた。この一報は、単なる地方ニュースの枠を超え、日本の地方自治が抱える構造的な脆弱性と、権力者の倫理観の欠如が如何に深刻な事態を招くかという、痛烈な警鐘を全国に鳴らした

これは、政策を巡る高尚な理念の対立ではない。国家の未来を左右するような国政レベルの政争でもない。その発端は、市長個人の経歴に関する「」という、あまりにも初歩的かつ根源的な問題であった。一個人の虚栄心、あるいは計算された欺瞞が、議会を機能不全に陥らせ、40日以内に行われる市議会議員選挙という形で約10万人の市民の生活を直接的に巻き込み、多額の税金を浪費させ、そして何よりも、市民と行政、議会との間に築かれるべき信頼関係を根底から破壊しようとしている。

中島弘道前議長が絞り出すように語った「大義なき解散に怒りしかない」という言葉。この言葉の背後には、議会人としての矜持を踏みにじられた無念さだけでなく、これから始まるであろう市政の混乱と停滞に対する市民への申し訳なさ、そして未来への深い憂慮が凝縮されている。

この伊東市で起きた「事件」を多角的に、そして深く掘り下げる。疑惑の原点から、議会の決断、そして市長による禁じ手とも言うべき解散権の行使に至るプロセスを詳細に検証し、それが伊東市政、ひいては日本の民主主義にどのような深刻な影響を及ぼすのかを徹底的に考察する。これは、伊東市民だけの問題ではない。全ての地方自治体、そしてそこに住まう我々一人ひとりに対する、重い問いかけなのである。

第1章:虚構の塔の崩壊 — 百条委員会が暴いた「卒業」という名の欺瞞


全ての始まりは、市の広報誌に掲載された「東洋大学法学部卒業」という、わずか10文字程度の経歴記述であった。公人がその経歴を公にする以上、それは一点の曇りもない事実でなければならない。有権者は、その人物の経歴や実績、理念を総合的に判断し、貴重な一票を投じるからだ。経歴は、その人物の信頼性を担保する重要な礎石の一つである。

しかし、田久保市長のこの「礎石」は、砂上の楼閣であったことが、市議会が設置した地方自治法第100条に基づく調査特別委員会、通称「百条委員会」によって白日の下に晒されることとなる。

百条委員会は、単なる調査機関ではない。関係者の出頭や証言、記録の提出を強制できる強い権限を持ち、虚偽の証言には偽証罪が適用される、極めて重い意味を持つ「議会の司法機関」である。議会がこの強力なカードを切った時点で、事態の深刻さは明らかであった。

委員会は、田久保市長本人への尋問に加え、決定的な証拠を東洋大学から入手する。大学側が提出した公式な資料は、残酷なまでに明確であった。そこには「田久保眞紀氏が、東洋大学を卒業しておらず、正規の卒業証書が授与された事実はない」という、動かぬ事実が記されていた。

もし、話がここで終わっていたならば、「卒業できると思い込んでいた」「単位計算のミスに気づかなかった」という市長側の「勘違いだった」という主張にも、一縷の酌量の余地があったかもしれない。人間誰しも過ちはある、と。しかし、百条委員会の調査は、さらにその奥深く、市長の主張の信憑性を根底から覆す核心にまで切り込んだ。

委員会報告書が断定した「田久保眞紀氏が、4年次に卒業できる見込みがなかったことが裏づけられることとなり、田久保眞紀氏が、卒業していたものと勘違いしていたとの主張は明らかに無理が生じる状況であることが確定する」という一文。これは、単なる「勘違い」ではなく、卒業が不可能であることを認識しうる状況にあったことを示唆している。

そして、決定的な一撃となったのが、「田久保眞紀氏は、6月28日以前から自身が除籍であったことを知っていたものと断定できることとなった」という結論である。6月28日とは、この問題が議会で本格的に追及され始めた時期だ。つまり、市長は問題が表面化する以前から、自らが大学を卒業していないどころか、学籍すら失っている「除籍者」であることを認識していた、と百条委員会は結論付けたのだ。

これが事実であるならば、事の重大さは全く異なる次元に移行する。これはもはや「勘違い」や「記憶違い」といった過失の領域ではない。自らが虚偽の経歴であることを認識しながら、選挙公報や市の広報誌といった公的な媒体を通じて、長年にわたり市民を欺き続けてきたという「意図的な詐称」の疑いが極めて濃厚となる。これは、公職選挙法第235条が定める「虚偽事項の公表罪」に該当する可能性のある、明確な違法行為である。

一人の人間としての誠実さが問われるのはもちろんのこと、市民の信託を受けて市政のトップに立つ公人としての資格そのものが、根底から問われる事態。虚構の塔は、百条委員会という真実の槌によって、音を立てて崩れ去ったのである。

第2章:民意の鉄槌 — なぜ議会は「全会一致」で不信任を突き付けたのか


百条委員会の衝撃的な報告を受け、伊東市議会が下した決断は、迅速かつ断固たるものであった。2022年9月1日、本会議において、田久保市長に対する不信任決議案が提出され、採決の結果は「全会一致」での可決。同時に、市長を地方自治法違反の疑いで刑事告発する方針も決定された

この「全会一致」という事実に、我々は最大限の注意を払わねばならない。地方議会は、決して一枚岩ではない。そこには、与党もあれば野党もあり、各議員はそれぞれ異なる支持母体や政治信条を持っている。通常であれば、市長の提出する議案一つをとっても、賛否両論が巻き起こり、激しい議論が交わされるのが常である。

しかし、今回の不信任決議において、その対立構造は完全に消滅した。保守系の議員も、革新系の議員も、無所属の議員も、全ての議員が党派や個人の利害を超えて、ただ一点、「田久保市長は、もはや伊東市のリーダーとしてふさわしくない」という認識で完全に一致したのである。

これは、この問題が、特定の政策やイデオロギーに関する対立ではないことを何よりも雄弁に物語っている。もし、これが例えば「大規模開発の是非」や「福祉予算の配分」といった政策課題を巡る対立であったならば、議会の意見は二分されていたはずだ。しかし、議題は「市長の嘘」であり、「政治家としての最低限の倫理観」であった。この根源的な問いの前には、いかなる政治的立場も意味をなさなかった。

議会が突き付けた不信任決議は、地方自治法第178条に定められた、議会が首長に対して行使できる最も強力な意思表示である。それは、単なる「遺憾の意」や「猛省を促す」といった生易しいものではない。「あなたには、もはや市政を担う資格がない」という、極めて重い最後通牒だ。

この決議は、単に18人の議員の総意ではない。それは、選挙を通じて議員を選んだ約10万人の伊東市民の、声なき声の代弁であった。議員たちは、市民から負託された権限に基づき、市民が感じているであろう怒り、失望、そして裏切られたという感情を、「全会一致」という最も明確な形で市政のトップに突き付けたのである。

さらに、刑事告発という手段にまで踏み込んだことは、議会の決意の固さを物語っている。これは、単に政治的な責任を問うだけでなく、司法の場においてもその罪を明らかにすべきだという強い意志の表れだ。政治の世界だけで問題を収束させるのではなく、法の下での厳正な裁きを求めるという、極めて厳しい姿勢である。

議会は、市民の代表として、その責務を最大限に果たした。民主主義の根幹である「信頼」を毀損したリーダーに対し、法と条例に則って、断固たるNOを突き付けた。それは、地方自治における議会のチェック機能が健全に作動した証しでもあった。しかし、この健全な民意の鉄槌は、市長によって前代未聞の形で打ち砕かれることになる。

第3章:権力の私物化 — なぜ「議会解散」は禁じ手なのか


不信任決議の通知を受けた市長に残された道は二つ。通知を受けた日から10日以内に、自ら辞職するか、あるいは議会を解散するか。どちらも選択しない場合、市長は自動的に失職する。市民の多くは、全会一致という議会の重い決断の前に、市長は潔く職を辞し、出直しの市長選挙で改めて市民に信を問う道を選ぶだろうと、そう考えていたかもしれない。

しかし、2022年9月10日、田久保市長が選んだのは、最も強硬かつ異例な選択肢、すなわち「議会の解散」であった。これは、自らの進退を問うのではなく、自分を不信任した議会そのものを、力ずくで消滅させるという行為に他ならない。

地方自治法が首長に議会解散権を認めているのはなぜか。それは、首長と議会が、例えば市の将来を左右するような重要な政策(大規模なインフラ整備、財政再建計画など)を巡って、互いに譲歩不可能なほど深刻に対立し、議会が全く機能しなくなった「政治的デッドロック」状態に陥った場合を想定している。そのような場合に限り、どちらの主張がより民意に近いのかを、選挙という民主的な手続きを通じて市民に直接問いかけるため、最終手段として解散権の行使が認められているのである。ここには、政策論争を最終的に決着させるのは有権者であるという、民主主義の基本理念がある

しかし、今回の伊東市のケースは、この立法趣旨から完全に逸脱している。前述の通り、これは政策の対立ではない。市長個人の資質、倫理観、そして違法行為の疑いが全ての原因である。議会を解散して市議会議員選挙を行ったところで、市長の学歴詐称の事実が消えるわけではない。百条委員会が下した結論が変わるわけでもない。選挙の争点は政策ではなく、ただひたすらに「田久保市長を支持するのか、しないのか」という一点に集約されるだろう。

これは、本来あるべき民意の問い方ではない。政策論争から逃げ、自らの個人的な問題から有権者の目をそらさせ、論点をすり替えるための、極めて自己中心的な権力行使である。まさに「権力の私物化」であり、地方自治法が想定していなかったであろう「解散権の濫用」と言わざるを得ない。

この「大義なき解散」がもたらす弊害は、計り知れないほど大きい

第一に、市政の完全な停滞である。

議会が存在しないということは、市の最高意思決定機関が不在になることを意味する。予算の審議、条例の制定・改正、市民生活に不可欠な様々な事業の決定が、全てストップする。新型コロナウイルス対策、物価高騰への対応、高齢化社会への備え、防災対策など、待ったなしの課題が山積する中で、伊東市だけが政治的な空白期間に突入する。この停滞による不利益は、全て市民が被ることになる。

第二に、莫大な税金の浪費である。

市議会議員選挙を行うには、数千万円単位の費用がかかる。投票所の設営、職員の人件費、選挙公報の印刷・配布など、その全てが市民の血税によって賄われる。本来であれば、子育て支援や教育、道路の補修といった市民サービス向上のために使われるべきだった貴重な財源が、市長一人の保身のために費やされる。市民にとって、これほど理不尽な支出はない。

そして第三に、最も深刻なのが、民主主義の根幹へのダメージである。

議会が全会一致で示した民意を、首長がたった一人の判断で覆し、無に帰す。これは、市民の代表である議会を軽視し、対話と熟議を旨とする議会制民主主義そのものを否定する行為に等しい。このようなことがまかり通れば、「首長にとって都合の悪い議会は、いつでも解散させてしまえばいい」という悪しき前例が生まれかねない。それは、地方自治の自殺行為である。

田久保市長が下した決断は、法に定められた権利の行使という形式をとってはいるが、その実質は、市民と議会に対する裏切りであり、民主主義への冒涜に他ならない。

第4章:置き去りにされた市民 — 誰のための、何のための市政か


この一連の騒動の中で、最も置き去りにされているのは誰か。言うまでもなく、伊東市民である

市長と議会の対立が深刻化し、議会が解散され、選挙戦に突入する。政治家たちは自らの立場を守るために声高に主張を戦わせるだろう。メディアはそれをセンセーショナルに報じる。しかし、その喧騒の陰で、市民の日常生活は静かに、しかし確実に蝕まれていく。

例えば、来年度の予算編成はどうなるのか。市の将来を見据えた新たな事業計画は、この政治的混乱の中で適切な審議を受けることができるのか。日々、市役所の窓口に助けを求めに来る市民、福祉サービスを必要としている高齢者や障がい者、未来を担う子供たちのための教育政策。これら全ての行政サービスは、安定した政治基盤の上にあって初めて、十全に機能する。

首長の最大の責務は、市民の生命と財産を守り、その幸福を追求することにあるはずだ。しかし、現在の田久保市長の行動は、その責務とは全く逆の方向を向いている。自らの地位を守ること、個人的な疑惑から逃れることが最優先され、市民の生活や市の未来は二の次にされているように見える。

多くの市民も納得のいくものではないと思う」という中島前議長の言葉は、まさに市民の偽らざる心境を代弁しているだろう。なぜ、自分たちが選んだ市長の個人的な問題のために、市政全体が振り回されなければならないのか。なぜ、市長の進退という一点のために、市議会全体がリセットされ、再び多額の税金を投じて選挙をやり直さなければならないのか。市民が抱く当然の疑問と怒りに対し、田久保市長は未だ何一つ真摯な説明責任を果たしていない。

この事態は、有権者に対しても重い問いを投げかける。我々は選挙において、候補者の何を基準に選ぶべきなのか。耳触りの良い公約やパフォーマンスだけでなく、その人物が公人として最低限の誠実さ、倫理観、そして説明責任を果たす覚悟を持っているのかを、厳しく見極める必要がある。ひとたび誤ったリーダーを選んでしまえば、その代償がいかに大きいかを、伊東市の事例は我々に痛感させる。

政治は、決して政治家のためだけにあるのではない。それは、市民の生活をより良くするための、市民の、市民による、市民のための営みであるはずだ。その原点を見失った権力者が、いかに地域社会に深刻なダメージを与えるか。伊東市の混乱は、その生々しい実例として、我々の記憶に深く刻み込まれるべきである。

終章:試される伊東の良識 — 民主主義の再生に向けた茨の道


議会は解散された。40日以内に、再び市民は投票所に足を運ぶことになる。しかし、この選挙は、通常の市議会議員選挙とは全く意味合いが異なる。それは、事実上、田久保市長に対する信任を問う「住民投票」としての性格を帯びることになるだろう。

選挙を経て再招集された議会で、再び市長への不信任決議案が提出され、今度は「議員の3分の2以上が出席した上で過半数が賛成」すれば、市長は反論の余地なく失職する。市長側は、この再不信任を阻止するため、自らに近い立場の候補者を一人でも多く当選させようと躍起になるだろう。対する反市長派は、議会の良識を守り、市政を正常化させるため、市民に団結を呼びかける。伊東市は、市長個人の問題を巡って、市民社会が二分されかねない、深刻な対立の時代に突入した。

この茨の道を乗り越え、伊東市が再び健全な地方自治を取り戻すことができるかどうかは、ひとえに有権者一人ひとりの良識と判断にかかっている。来る選挙で問われるべき争点は、極めて明確だ。

それは、「嘘と欺瞞の上に築かれたリーダーシップを許すのか」
それは、「民意の殿堂である議会を踏みにじる行為を是とするのか」
そして、「権力を私物化し、市政を停滞させる市長の下で、伊東市の未来を本当に描くことができるのか」

この問いに対し、伊東市民がどのような答えを出すのか。日本中の地方自治関係者、そして民主主義を信じる全ての国民が、固唾をのんで見守っている。

この問題の経緯と本質を、繰り返し、粘り強く報じ続けること。感情的な対立を煽るのではなく、冷静な判断の材料となる客観的な事実を提供すること。そして、権力の監視という本来の役割を全うし、市民社会と共に、傷ついた民主主義を再生させるための一助となること。

伊東市の美しい海は、今日も変わらず静かに広がっている。この街が、政治的混乱という濁流を乗り越え、再び澄み切った誇りを取り戻す日を、心から願ってやまない。そのための第一歩は、有権者一人ひとりが、この「大義なき解散」の意味を深く理解し、責任ある一票を投じることから始まる。伊東市の良識が、今、まさに試されている。

目次