もはや語るに値しないとはこのことでしょう。静岡県伊東市の田久保眞紀市長が、市民の信頼を完全に失いながらも、なおその座に醜くもしがみついています。議会を解散するという暴挙に出て6300万円もの血税を浪費した挙句、市議選で「拒絶」の審判を突きつけられたにも関わらず、です。
その理由は「政治的信条」などという高尚なものではなく、元市長の清水聖士氏が指摘するように、単純明快な「カネ」である可能性が極めて濃厚です。具体的には、12月1日の在職をもって満額支給される「ボーナス(期末手当)」と、月単位で計算される「退職金」。
この記事では、伊東市民を愚弄し続ける田久保市長の厚顔無恥な延命策と、それを許す構造、さらには比較対象として挙げられた前橋市の小川晶市長の「ラブホ問題」がいかに茶番であるかを、一切の忖度なく徹底的に論破します。
伊東市民を愚弄する6300万円の茶番劇
今回の騒動の発端は、田久保市長が自らの不信任決議案可決に対抗し、市議会を解散したことです。この「政治的決断」とやらには、市民の貴重な税金が約6300万円も投入されました。結果はどうだったでしょうか。
戦略なき解散 6300万円をドブに捨てた無責任
元鎌ケ谷市長の清水氏は「戦略がまったくないまま議会を解散したようだ」と呆れていますが、これは的を射た指摘です。通常、議会解散は「選挙で民意を問えば勝てる」という算段があって初めて行使する劇薬です。
しかし、田久保市長には何の勝算も戦略もありませんでした。ただ感情的に「不信任を出した議会が憎い」という一心で解散権を濫用したに過ぎません。結果、自身の延命(辞職回避)に必要だった「田久保派7人」の当選は夢と消え、惨敗。
これは政治ではありません。単なる駄々であり、そのために市民は6300万円という大金をドブに捨てさせられたのです。この一点だけでも、市長としての資質ゼロ、いやマイナスであることは火を見るより明らかです。
市民が下した「拒絶」の審判
市議選の結果は、田久保市長に対する明確な「NO」でした。擁立した候補者が通らず、反市長派が議会の大勢を占める。これ以上の民意はありません。
普通の神経、普通の責任感を持った人間であれば、この時点で自らの非を認め、潔く辞職するのが筋です。しかし、田久保市長は違いました。民意が示されてもなお、その椅子に座り続けているのです。なぜか。
醜態の極み ボーナスと退職金に執着する市長の浅ましさ
清水氏が指摘する「普通の神経ではない」という言葉が、今、現実味を帯びています。田久保市長が辞職しない合理的な理由は、もはや「カネ」以外に見当たりません。
12月1日の在職が満額ボーナスの条件
地方公務員、もちろん市長も同様ですが、ボーナス(期末・勤勉手当)は基準日(通常6月1日と12月1日)に在職していることで満額支給の権利が発生します。
田久保市長の不信任案が再可決されれば、その時点で「失職」です。もし11月中に失職すれば、冬のボーナスは満額受け取れません。しかし、12月1日さえ在職していれば、たとえ12月2日に失職しようとも、満額のボーナスが懐に入ります。
清水氏自身も「私も市長退任は6月10日でしたが、夏のボーナスは満額でした」と証言しており、これは制度の現実です。
1日でも長く 在任月数で増える退職金
さらに卑しいのは退職金です。これも在任「月数」で計算されます。月の途中で辞めるのも、月末まで粘るのも、その「1ヶ月分」が加算されるか否かの違いが出ます。
つまり、田久保市長が現在行っているのは「政治活動」ではなく、「1日でも長く在職し、1円でも多くのボーナスと退職金を確保するための時間稼ぎ」という、極めて卑劣な「金策」なのです。
臨時議会の招集遅延 20日間の法的悪用
地方自治法では、議会から招集請求があれば「20日以内」に招集しなければならないと定められています。裏を返せば、20日間は合法的に「サボタージュ」できるわけです。
10月31日に臨時議会が開かれるとの報道がありますが、もし田久保市長がこの20日間を最大限に悪用し、あの手この手で議会開会を遅らせ、12月1日をまたごうと画策しているならば、それはもはや公職者の姿ではなく、金に執着する亡者そのものです。
6300万円の血税を無駄にした張本人が、さらに数百万円(推定)のボーナスと退職金の上積みを狙って市民を裏切り続けている。これほどの背信行為があるでしょうか。
再出馬の可能性という悪夢
さらに清水氏が言及する「辞職後の市長選への出馬」と「当選の可能性ゼロではない」という見立ては、伊東市民にとって悪夢でしかありません。
知名度か悪名か 票の分散を狙うハイエナ戦術
清水氏は「圧倒的な知名度」と「反田久保側の分裂」を当選の可能性として挙げています。しかし、彼女の知名度は「悪名」に他なりません。
彼女が唯一勝てるとすれば、反田久保派が候補者を一本化できず、票が割れ、その漁夫の利を得るパターンのみ。つまり、自らの政策や実績ではなく、他者の失敗によってのみ浮上できるという、ハイエナのような戦術です。
これだけ市を混乱させ、税金を無駄遣いし、最後はボーナス目当てで居座るような人物を、再び市長に選ぶほど伊東市民は愚かではないと信じたいところですが、その可能性に言及されること自体が市民への侮辱です。
比較にならない前橋市長の茶番劇
この記事は、伊東市の田久保市長と対比する形で、前橋市の小川晶市長の「ラブホミーティング」問題にも触れています。しかし、清水氏の小川市長に対する見立ては、驚くほど甘く、論理が破綻しています。
「男女関係はない」はウソではない可能性という詭弁
清水氏は「『男女の関係はない』というのはウソではない可能性がある」「極めて稚拙な判断だとは思うものの、そういうおかしい判断をしてしまった『過失』」と擁護します。
これは一体どういう論法でしょうか。「ラブホで女子会も行われている」などという言い訳を真に受けるのでしょうか。複数回にわたり、人目を忍ぶ場所の代表格であるラブホテルで「相談」を行う必要性がどこにあるというのでしょう。
「過失」という言葉で意図的に矮小化していますが、これは市民の倫理観、常識感覚からの著しい乖離であり、公職者としての「故意」の裏切り行為と断じられても仕方がありません。
被害者である配偶者が許せば問題ないという暴論
さらに清水氏は、相手男性職員の配偶者が「小川市長を訴えることは考えていませんし、謝罪も望んでおりません」とコメントしたことを「大きなインパクト」「彼女が許すとなれば、市民や議会の受け止め方も厳しさが減る」と評価しています。
これは最大の論点ずらしです。この問題は、第一に「不倫」という民事上の問題であると同時に、それ以上に「市長という公職者が、市職員と、勤務時間中(一部)も含め、ラブホテルという不適切な場所で密会していた」という、公務員倫理と市民の信頼に関わる「公」の問題です。
配偶者の方が(ネットで噂されるように示談金等が動いたかどうかも含め)私的に許したからといって、市民が「公」の立場で市長の不適切な行動を許すことにはなりません。清水氏はこの公私の区別が全くついていません。
報酬カットは「みそぎ」に非ず
小川市長は報酬50%カットを表明しました。清水氏は、議会がこれを可決すれば「みそぎ」は済むと述べています。
冗談ではありません。自らのスキャンダルに対し、自ら「報酬カット」を提案し、それが通れば許されるというなら、政治家は安泰です。金で解決できる問題ではありません。失われたのは信頼そのものです。
伊東市の田久保市長が「カネ」に汚いとすれば、前橋市の小川市長は「倫理観」が欠如している。清水氏が両者を「両極端」と評したのは、片や開き直り(田久保)、片や嘘と弁明(小川)というスタイルの違いに過ぎず、どちらも公職者として失格であることに変わりはありません。
まとめ 市民の鉄槌を待つ二人の市長
伊東市の田久保眞紀市長は、6300万円もの税金をドブに捨てた上、12月1日のボーナス満額支給と退職金の上積みを狙い、市民の民意を無視してその座に居座り続けるという醜態を晒しています。その行動原理は「私利私欲」以外になく、一片の同情の余地もありません。
一方、前橋市の小川晶市長も、稚拙な嘘と論点ずらしでラブホ密会という公職者にあるまじき行動を「過失」で済まそうとしています。
元市長である清水聖士氏の分析は、田久保市長に対しては妥当である一方、小川市長に対しては極めて甘く、市民感覚からかけ離れた「仲間内」の擁護に聞こえてしまいます。
伊東市、前橋市、両市民が今まさに問われています。このような公私混同と私利私欲にまみれた市長を、これ以上放置しておくのか。市民の怒りと良識ある判断が、この醜悪な茶番劇に終止符を打つことを切に願います。
