テキサスチェーンソー ビギニング考察。救いゼロのトラウマ前日譚をレビュー

映画「テキサス・チェーンソー ビギニング」のポスター画像。炎の中に浮かぶ不気味なレザーフェイスの顔が上部に描かれ、下部には乾燥した荒野に錆びた車、パトカー、そしてカウボーイハットの男性とチェーンソーを持つ男性のシルエットが並んでいます。右側の金属プレートには、英語と日本語で映画タイトル「THE TEXAS CHAINSAW MASSACRE THE BEGINNING」と「テキサス・チェーンソー ビギニング」が記されています。

あの時の胃がひっくり返るような感覚は今でも忘れられない。テキサスチェーンソー ビギニングを初めて観た時のことだ。当ホラー映画特化サイトを運営するくらいには数え切れないほどのホラー作品を浴びるように観てきたが、ここまで救いがなく、観終わった後に強烈な疲労感で立ち上がれなくなった映画はそう多くない。

2003年に公開されたリメイク版のヒットを受けて作られた前日譚、なんていう生易しい言葉で片付けてはいけない。この映画は、人間の奥底にあるサディスティックな欲望と、絶対に逃れられない理不尽な暴力を見事に煮詰めた純度100パーセントの悪夢である。今回は、お上品な映画評論家どもからどれだけボロクソに叩かれようとも、我々ホラーファンの心に決して消えないトラウマを刻み込んだ本作について、一切の忖度なしで、むせ返るような熱量とともに語り尽くしていきたい。

目次

2006年という時代背景とテキサスチェーンソー ビギニングの立ち位置。トーチャーポルノ全盛期の異端児

この胸糞悪い傑作が生まれた2006年という時代について、まずは振り返らなければならない。当時のアメリカ映画界は、数年間の低迷をどうにか抜け出し、観客が劇場に戻り始めていた時期だった。しかし、それは同時にライバル作品がひしめき合う激戦区でもあった。

ディパーテッドの裏で全米初登場2位。数字から読み解くホラー映画ファンの熱狂と興行収入

そんな過酷な市場環境の中、10月6日に全米でおよそ2800館という規模で公開された本作は、なんと初週末のランキングで堂々の2位に食い込んだ。この時の1位がマーティン・スコセッシ監督がアカデミー賞を総なめにした超名作であるディパーテッドだったという事実が、この事態の異常性を際立たせている。

想像してみてほしい。シネコンの片方のスクリーンでは、映画ファンたちが重厚なマフィアの人間ドラマに涙し、芸術的な余韻に浸っている。しかし壁を隔てた隣のスクリーンでは、けたたましいチェーンソーの爆音が鳴り響き、飛び散る血肉と若者たちの断末魔を前に、血に飢えた連中がポップコーンをむさぼり食っているのだ。初週末だけで約1915万ドルを稼ぎ出したこの狂った数字は、ただのデータではない。美しく感動的な映画などクソ食らえと言わんばかりの、アメリカ国内の極めてコアで倒錯したホラーファンたちの異常な熱気が作り上げた巨大な渦だった。

ソウやホステルに連なる過激な残酷描写。痛みをエンターテインメントとして消費する時代の業

当時のホラー映画界を語る上で絶対に避けて通れないのが、トーチャーポルノと呼ばれるサブジャンルの爆発的な流行だ。目を覆いたくなるような拷問や肉体破壊をエンターテインメントとして消費する、ある意味で病んだ潮流が確実に存在していた。

テキサスチェーンソー ビギニングの制作陣も、この波に便乗するどころか、自らその波の頂点に立とうとするかのような狂気を見せた。痛覚を直接刺激するようなゴア描写の数々は、ただ残酷なだけではない。そこに生々しい肉の質感や、ノコギリの刃が骨を軋ませる不快な音、そして人間の皮膚が剥がれ落ちる時のじっとりとした粘り気までもが執拗に描かれている。この時代の観客が求めていた極限の生理的嫌悪感に対して、作り手が全霊で応えた結果がこの作品なのだ。

MPAAとのR指定を巡る死闘。テキサスチェーンソー ビギニングの制作陣が挑んだ限界突破の映像表現

この映画の恐ろしさは、スクリーンの中だけにとどまらない。カメラの裏側でも、制作陣は信じられないような戦いを繰り広げていた。ターゲットはアメリカの審査機関であるMPAAだ。

NC-17指定の危機。削る前提でカメラを回した血まみれの制作秘話と狂気

当時のプロデューサーたちが後に語ったところによると、本作はMPAAから、17歳以下は絶対に入場できないNC-17指定に相当するシーンが実に17箇所もあると突き返されたという。NC-17を食らえば、上映できる劇場は激減し、興行収入は壊滅的な打撃を受ける。映画としては事実上の死刑宣告だ。

普通ならここで表現をマイルドにするところだが、彼らは完全に狂っていた。最初からR指定の限界をぶち破る過激な映像を現場で撮るだけ撮り、後から編集室で血の量を減らしたり、直接的なゴア描写を数コマ単位で泣く泣く削り落としたりして、ギリギリのラインでR指定をもぎ取るという狂気のパワープレイに出たのだ。レザーフェイスが犠牲者の顔の皮を剥ぎ取り、初めてあの醜悪なマスクを被ってチェーンソーを振り回すあの歴史的な瞬間の圧倒的な熱量は、検閲システムに対する怒りと、削る前提の狂った撮影現場からしか生まれ得ない奇跡の産物である。

批評家からの支持率16パーセント。ストーリーの空虚さを指摘された辛口レビューの裏側

もちろん、こんな作り方をすればお高く止まった批評家どもが黙っているはずがない。辛口レビュー集約サイトのRotten Tomatoesでは、批評家の支持率がわずか16パーセントという惨憺たる結果に終わった。ストーリーに深みがない、ただのゴア描写の羅列だ、前日譚としての新しい発見がない。そんな薄っぺらい批判が大手メディアから次々と浴びせられた。

だが、我々ホラーファンからすればそんな寝言は全くの的外れだ。スラッシャー映画に高尚な人間ドラマや感動的な成長物語などハナから求めていない。我々が対価を払って求めているのは、理不尽に命が奪われる底なしの絶望感と、腹の底に響くチェーンソーの轟音に包まれる圧倒的な恐怖体験だけだ。翌年のゴールデンラズベリー賞で最悪の前日譚や続編の賞にノミネートされたことすら、映画としての品格を投げ捨ててまでゴア描写を追求したこの映画にとっては、最高に名誉な勲章でしかない。

狂気の権化、ホイト保安官の恐ろしさ。テキサスチェーンソー ビギニングが描く理不尽な暴力のメタファー

この映画について語る時、どうしてもレザーフェイスの生い立ちや殺戮シーンにばかり目が行きがちだが、真の恐怖の根源はそこではない。R・リー・アーメイ演じるホイト保安官、いや、あの狂気に満ちたニセ保安官の存在こそが、本作を単なるスプラッター映画から一つ上の次元の胸糞映画へと格上げしている最大の要因だ。

イラク戦争以降の社会不安とのリンク。権力の暴走を体現するホイト保安官のイカれっぷり

理屈やメタファーを語る前に、まずは単純な感情を叩きつけたい。こいつの顔を見るだけで吐き気がするのだ。ホイト保安官のイカれっぷりは、まさに権力の暴走そのものである。彼は法の番人の象徴である保安官の制服を身にまとい、絶対的な権力者として若者たちを理不尽にいたぶり、徹底的に精神を破壊していく。

車に言いがかりをつけて若者たちをひざまずかせ、土下座の状態で腕立て伏せを強要し、少しでも反抗の素振りを見せれば容赦なく警棒で殴りつける。あのねっとりとしたサディズムと、弱者をなぶり殺しにする時の歪んだ笑顔を見ていると、スクリーン越しに顔面を殴り飛ばしたくなるほどの強烈な怒りと、それに勝る恐怖で本当に胃がねじ切れそうになる。イラク戦争以降、国家による監視や権力者の暴力に対する不安が高まっていた当時のアメリカ社会において、このホイト保安官というキャラクターは、観客の無意識下にある不信感と恐怖をこれ以上ないほど完璧に具現化した最悪の存在だった。

徴兵という国家の暴力から逃れる若者たち。1969年のベトナム戦争設定がもたらす絶望

物語の舞台は1969年。この年は個人的にも非常に馴染み深く思い入れのある年代なのだが、本作の中で描かれる1969年は果てしなく暗く、息苦しい。泥沼化するベトナム戦争の只中であり、若者たちは国家による徴兵という巨大な暴力に怯えていた。本作の主人公である若者たちも、そんな時代背景の中でベトナム行きから逃れようと足掻き、テキサスの荒野へと迷い込む。

国家の駒としてジャングルで命を捨てるか、それとも逃亡して一生日陰者として生きるか。そんな究極の選択を迫られていた彼らが、近代化から取り残されたテキサスの片田舎で、ヒューイット一家という底辺の暴力に飲み込まれていく。法の庇護を求めたはずの制服警官が最凶のサイコパスだったという絶望。近代社会の暗部が、平和な日常を無残に食い破るこのロードホラーの構図は、逃げ場のない若者たちの悲劇をさらに深い闇へと引きずり込んでいる。

スラッシャー映画の掟をぶち壊す結末。テキサスチェーンソー ビギニングの純度100パーセントの虚無感

ホラー映画には、どんなに凄惨な展開が続こうとも、最後にはわずかな希望が残されるという暗黙のルールがある。善良な若者や、タフに成長したヒロインが機転を利かせて殺人鬼に一矢報い、血まみれになりながらも朝焼けの中で逃げ切る。いわゆるファイナルガールの法則だ。

ファイナルガールの法則は通用しない。努力が一切報われないアメリカンドリームの崩壊

しかし、テキサスチェーンソー ビギニングは前日譚である。レザーフェイスやホイト保安官がここで死ぬわけがないのだ。観客は映画が始まった瞬間から、この若者たちが絶対に助からないという残酷な結末を突きつけられながら、彼らがなぶり殺しにされていく過程をただ無力に見つめることしかできない。

その絶望の頂点が、ヒロインであるクリッシーの最期だ。彼女は必死に逃げ、泥水にまみれ、ボロボロになりながらもヒューイット家から車を奪い、ついに悪夢のテリトリーから抜け出したかのように見えた。観客の誰もが、少なくとも彼女だけは生き残るのだと安堵の息を漏らしたその瞬間。後部座席から唐突に突き出されたチェーンソーの刃が、クリッシーの腹を座席ごと背後から無残にぶち抜く。

血を吐きながら絶命する彼女の姿と、コントロールを失ってパトカーに激突する車。彼女の道徳的な正しさや勇気など、あの狂ったチェーンソーの前では何の意味も持たなかった。努力すれば報われるというアメリカンドリームは文字通りバラバラに引き裂かれ、観客はスッキリとしたカタルシスを根こそぎ奪われる。心臓が止まるようなあの強烈なショックと、その後に訪れる静寂。あれこそが、スラッシャー映画史に残る最悪で最高のバッドエンドである。

オースティン周辺の本物の土埃と熱気。シリーズ最後のテキサスロケ撮影が生み出した唯一無二の空気感

この圧倒的で逃げ場のない絶望感に、これ以上ないほどのリアリティを与えているのが、本物のテキサスの空気だ。本作はシリーズの聖地とも言えるテキサス州オースティン周辺で実際に撮影された。長い歴史を持つこのフランチャイズの中で、純粋にテキサスで撮影が行われたのは、驚くべきことにこの2006年版が最後だと言われている。

画面から立ち上るような乾燥した土埃の匂い、視界を歪ませる猛烈な熱気、そして見渡す限り逃げ場のない乾いた荒野。若者たちが流した大量の血と汗が、テキサスの泥臭い土埃と混ざり合い、画面越しに異臭を放つかのような不快感を生み出している。これらはどれだけCG技術が進歩しようとも絶対に作り出せない、本物のロケーションだけが持つ暴力的なまでの説得力だ。あのヒューイット家の不気味な佇まいや、血と油と腐臭にまみれた食肉工場のセットも、この過酷なテキサスの気候と交わることで初めて、一つの完璧な地獄として完成している。

テキサスチェーンソー ビギニングは単なるホラー映画を超えたトラウマ製造機である

テキサスチェーンソー ビギニングは、美しい物語や感動的な結末を求める人間が観るべき映画では絶対にない。ここで描かれているのは、人間の肉体がどれほど脆く、狂気というものがどれほど理不尽で抗いがたいものかという、圧倒的な暴力の事実だけだ。

だが、ホラー映画が時代を映す鏡であり、私たちの内面にある恐怖や不安を容赦なく形にするものであるならば、本作は間違いなく2000年代という時代を代表する大傑作の一つである。MPAAという権力と戦いながら限界ギリギリの残酷描写を追求した制作陣の異常な執念、R・リー・アーメイが体現した権力の狂気、そして一切の救いを拒絶した純粋な虚無感。

観終わった後に残る、もう二度と観たくないと思わせるほどの強烈な疲労感と胃の痛みこそが、この映画がトラウマ製造機として完璧に機能している何よりの証拠だ。ホラー映画を愛し、小綺麗なスリルではなく真の恐怖と絶望を求めるすべての者に、このむせ返るような血と土埃の匂いを、ぜひ一度その身で体験してほしい。

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