死霊の盆踊りという奇妙なタイトルを聞いたことがある人でも、その制作背景まで知っている人は少ないだろう。エド・ウッドが没落しつつあった時期に、亡命ブルガリア人監督A・C・スティーヴンと組んで生まれたこの映画には、思いつきで継ぎ足された演出、演技未経験のキャスト、そして監督自身も把握しきれなかった興行の裏側など、単なる「最低映画」の一言では片付けられない噛み合わなさが幾重にも重なっている。今回はその制作秘話を、より深いところまで掘り下げていく。
出会いの経緯、亡命ブルガリア人と没落しかけた脚本家
まず押さえておきたいのが、監督A・C・スティーヴンこと本名ステファン・アポストロフの経歴だ。彼はブルガリア出身で、青年期に共産政権下での反体制活動の嫌疑をかけられ、収容所に送られた経験を持つとされる。その後アメリカへ渡り、自身の体験を題材にした『Journey to Freedom』の制作に加わったが、そこから先は仕事に恵まれず立ち止まっていた時期があったという。
「本人談」であることの留保
ここで一つ注意しておきたいことがある。この反体制活動をめぐるエピソードは、1990年に専門誌Psychotronicがアポストロフ本人に行ったインタビューが出どころであり、第三者による客観的な裏付け資料ではない。実際、資料によっては「活動実績があったかどうかははっきりしない」「本人はまるで陰謀に巻き込まれたかのようなニュアンスで語っている」と留保をつけて紹介するものもある。このエピソードは、事実として確定した経歴というより、アポストロフ自身が語った「自分史」として扱うのが適切だろう。この姿勢は、後述する製作費や興行成績の話とも通じる、本作を語る上での基本的な構えになる。
なぜエド・ウッドと組んだのか
行き詰まっていたアポストロフに転機が訪れる。『Journey to Freedom』で撮影を担当していたウィリアム・C・トンプソンが、彼にエド・ウッドを紹介したのだ。当時のウッドも『グレンとグレンダ』『怪物の花嫁』『プラン9・フロム・アウタースペース』を撮りながら興行的には報われず、生活は苦しかった。レストランでの顔合わせをきっかけに、アポストロフが監督、ウッドが脚本という座組みが決まったと伝えられている。大手スタジオと戦う手段を持たない者同士が、性表現という当時急拡大していた隙間市場に活路を求めた結果、この企画が動き出したことになる。
わずか18ページの脚本はどう膨らんだのか
意外と知られていないのが、本作の脚本がもともと『Nudie Ghoulies(裸の食屍鬼たち)』という仮題の、18ページ程度の脚本だったという点だ。この段階では物語部分に20分、10種類の踊りに42分を割く構成だったと伝えられている。しかしこのままでは尺が持たないと判断したアポストロフが、踊りの趣向を次々に追加していく。
007から生まれた「黄金の踊り子」
特に興味深いのが、劇中の「黄金を愛した女」ことゴールド・ガールの着想だ。これは同時期に公開され話題を呼んでいた『007 ゴールドフィンガー』の、全身に金粉を塗られた女性のイメージから直接ヒントを得たとされる。当時のヒット作のビジュアルを模倣しながら、独自の「死後の裁き」という物語に落とし込んでいったわけだ。ハワイアン風の踊りが追加されたきっかけも、たまたま入った店でポリネシア風の衣装の女性を見かけたことだったというから、その場しのぎの発想の積み重ねで映画が膨らんでいった様子がうかがえる。
なお、この踊りの追加をめぐっては資料によって記述に差があり、一部の演出だけがアポストロフの追加だとする説もあれば、そもそも踊り手を大量に登場させるという構成そのものがアポストロフの発案だったとする説もある。どちらが正確かを断定する材料は今のところ見当たらないため、ここでは「複数の証言が存在する」という事実にとどめておきたい。
ヌーディー・キューティーとラフィーの狭間という必然
本作が生まれた1965年という時期そのものにも意味がある。1950年代までのアメリカ映画界は性表現に対する規制が厳しく、ストリップショーをそのまま記録した作品や、ヌーディスト取材を名目にした裸体映画がある程度存在するにとどまっていた。この状況を変えたのが、1959年のラス・メイヤー監督作『インモラル・ミスター・ティーズ』で、主人公の妄想という体裁を取りながら女性の裸体を物語に組み込み、以降「ヌーディー・キューティーズ」と呼ばれる作品群が量産されるようになる。
一方で1960年代半ばになると、犯罪や暴力、性的倒錯を扱うより刺激の強い「ラフィー」と呼ばれる作品群も台頭し始める。本作が公開された1965年は、まさに明るいヌーディー・キューティーの時代と、より過激なラフィーの時代がせめぎ合う過渡期にあたる。墓場・怪物・拷問めいた設定というホラー的な暗さと、ヌーディー・キューティー的な「ひたすら踊りを見せる」という古い形式が同居しているのは、狙って組み合わせたというより、ジャンルの過渡期にたまたま両方の要素を抱え込んでしまった結果と見る方が実態に近いのかもしれない。
現場で起きていたこと、キャストとスタッフの実態
撮影は1965年に始まったとされるが、現場は決して順調ではなかった。ボブ役のウィリアム・ベイツは元FBI捜査官からの転身組で演技経験がなく、シャーリー役のパット・バリンジャーは悲鳴の演技すらままならなかったにもかかわらず、これでスターになれると本気で信じていたと伝えられている。自宅で悲鳴の練習をしすぎて声を嗄らしたまま現場入りしたという逸話まで残っているほどだ。
クリズウェルの棒読みと、支え続けたウッド
「夜の帝王」を演じたクリズウェルはセリフをまったく覚えてこなかった。責任を感じたウッドがカメラの陰でキューカードを掲げ、クリズウェルに台詞を教え続けながら撮影を進めたという。クリズウェルの視線が微妙にカメラから外れて見えるのは、演技の癖というより、この撮影方式そのものが原因だった可能性が高い。
昼夜が混在してしまった編集ミス
技術面でも問題は山積みだった。冒頭のドライブシーンは、日中に撮影した映像を暗く処理して夜のシーンに見せる予定だったが、処理がうまくいかず、暗く加工された部分と昼間のままの部分が混在する仕上がりになってしまう。スケジュールの都合でこの欠陥は修正されずそのまま公開された。この種の「昼夜の混乱」はウッドの監督作にも共通する特徴であり、結果として本作が後年「ウッドの監督作」と誤認される一因にもなったとされている。
タイトルは三度変わった
タイトルの変遷も見逃せない。制作中は『Ghouls and Dolls(食屍鬼どもと女たち)』という仮題で呼ばれていたが、クリズウェル本人が『Orgy of the Damned(呪われし者たちの乱交パーティー)』という案を提示し、それにアポストロフが手を加える形で最終的に『Orgy of the Dead』へと落ち着いたという。主演級ではなく怪演担当の俳優が英題の決定に一枚噛んでいたというのは、低予算映画ならではの現場の距離の近さを物語る。
「シャーリー」に忍ばせたウッドの自己投影
ヒロインの名前にも仕掛けがある。パット・バリンジャー演じる「シャーリー」は、エド・ウッド自身が女装した際に名乗っていた名前とされ、彼の作品には「シャーリー」という名の、ウッド自身を投影したキャラクターがたびたび登場するという指摘がある。表向きは監督アポストロフの作品でありながら、ヒロインの名前という物語の核の部分に、ウッドの内面が忍び込んでいる。ウッドの本作への関与が、単なる脚本執筆やキューカード係にとどまらない、もっと個人的なものだったことをうかがわせるエピソードだ。
数字で見る『死霊の盆踊り』
ここからは証言や逸話ではなく、数字の面から本作を見てみたい。ただし、この数字にも扱いに注意が必要なものが混じっている。
製作費「約1万ドル」の出どころは曖昧
複数の映画データベースで製作費は約1万ドルとされている。しかし、AFI(American Film Institute)のような同時代の公式記録にはこの数字の記載が確認できない。「約1万ドル」はネット上で広く流通している数字ではあるものの、一次資料による確定値として扱うべきものではないということになる。同様に、世界興収や北米興収についても信頼できる確定値を示す資料は見当たらず、興行成績は現時点で「不明」とするのが最も正確だ。独立系・成人向け映画館を中心に流通した1960年代の低予算作品では、こうした記録がそもそも残されていないケースが珍しくない。
批評家の採点は「今」下されたものである
現在の評価は厳しい。Rotten Tomatoesに掲載された批評ではDennis Schwartzらが低い評価をつけ、IMDbでも2026年時点で3,700件近い投票に基づき10点満点中3.0という低スコアがついている。ただし、これらの評価の多くは1965年の公開当時のものではなく、数十年後に書かれたレビューである点は強調しておきたい。「公開当初から酷評されていた」と断定することはできず、むしろ後年の観客や評論家が、カルト映画として本作を見直した結果の採点だと考えるべきだろう。
この映画から巣立った人、消えていった人
映画は完成し、ウッドは翌年ノベライズを出版して600ドルを得た。1968年にはフランスでも公開されたが、ホラーとしてもエロティカとしても高い評価は得られなかったという。ここからの当事者たちの歩みは、明暗がくっきり分かれている。
パット・バリンジャーだけが掴んだスター街道
演技経験もないまま「これでスターになれる」と信じ込んでいたバリンジャーだが、結果的にその読みはあながち外れていなかった。本作の資料を調べていたウィリアム・ロッツラーの目に留まり、1966年の『Agony of Love』で主演を務め、セクスプロイテーション映画界のスターとして名を上げることになる。ただし、他の踊り手たちで同様の実績を残した者はいない。10人前後いたダンサーのうち、次のキャリアにつなげられたのはごく一部だったことになる。
アポストロフとウッド、明暗を分けた晩年
アポストロフはその後もA・C・スティーヴン名義でソフトコア作品を作り続け、一時代を築いた。しかし1972年に『ディープ・スロート』が公開されハードコア作品が台頭すると、彼が得意としていたソフトコア路線は急速に顧みられなくなっていく。ウッドはこの後もアポストロフと組んで仕事を続けたが大きな成果を得ることはなく、1978年に世を去った。皮肉なことに、映画の外側でも「時代の変化に取り残される」という本作のテーマと重なるような結末を、この二人自身がたどっている。
再評価のきっかけと、令和になっても続く再燃
過去の作品となりかけていた本作が再び注目を集めたのは、1980年に出版された書籍『ゴールデン・ターキー・アワード』でウッドが「史上最低の監督」として取り上げられたことがきっかけだった。ここから、ウッドが関わった作品全体が発掘され直す流れが生まれ、本作もその渦の中に巻き込まれていく。
ブルガリアのドキュメンタリーと、新潟の高校生が描いた宣伝看板
興味深いのは、この再評価の波が国境を越えて広がっている点だ。ブルガリアでは監督アポストロフを追ったドキュメンタリー『Dad Made Dirty Movies』が制作され、2011年のヴィジョン・デュ・レール国際ドキュメンタリー映画祭で公開された。その後の放送時には、アポストロフの代表作として本作が紹介されている。日本でも歩みは止まらず、2019年12月にHDリマスター版が一部劇場で上映されたのに続き、2020年2月には新潟の高田世界館で『プラン9・フロム・アウタースペース』と二本立てで上映された。この上映では、こうした映画に縁遠い高校生にも関心を持ってほしいという狙いから、地元高校の美術部に宣伝看板の制作が依頼されたという。ブルガリアの記録映画から新潟の高校生の美術部まで、実に遠い場所を巻き込みながら、この映画は生き続けている。
まとめ偶然の連鎖が生んだ、再現不可能な副産物
改めて掘り下げてみると、『死霊の盆踊り』は企画の出発点から撮影現場、タイトル決定、当事者たちのその後の人生、そして日本での興行に至るまで、あらゆる段階で行き当たりばったりの判断が積み重なった作品であることが分かる。亡命者アポストロフと没落気味のウッドという二人の出会い、007から借りてきた思いつきの演出、演技経験のないキャスト、修正されなかった技術的なミス、そして監督自身が状況を正しく把握できていなかった映画祭上映。
こうした事実を数字や証言の質と照らし合わせていくと、本作を単純に「最低映画」の一言で片付けることの危うさも見えてくる。製作費や興行成績のように確定できない数字がある一方で、現在の低評価は後年下されたものだという事実は動かない。つまり本作は、同時代には正しく評価されず、後世になって初めて「価値」を与えられた作品なのだ。ブルガリアのドキュメンタリーや新潟の高校生の宣伝看板が示す通り、この映画は今も思いがけない場所で新しい観客を獲得し続けている。それは、誰かが意図して作り上げた個性ではなく、行き当たりばったりの判断の連鎖が偶然生み出してしまった、再現不可能な副産物だからこそなのかもしれない。
