『死霊のはらわた』(1981)——弾圧と絶賛が生んだ低予算ホラーの伝説
製作費はおよそ35万ドル。監督は撮影直前に20歳になったばかりの無名の若者。主演は素人同然の友人。それでも配給会社に軒並み門前払いを食らったこの映画は、最終的に製作費の数倍から数十倍とも言われる興行収入を稼ぎ出し、今日「史上最高のホラー映画」の一本に数えられるまでになった。サム・ライミ監督のデビュー作『死霊のはらわた』(The Evil Dead, 1981)は、なぜここまでの成功を収められたのか。皮肉なのは、その成功を後押ししたのが「絶賛」だけでなく「弾圧」でもあったという点だ。誕生から興行、規制、そして日本での受容までを追ってみたい。
あらすじ
フロリダ州ジャクソンビルから休暇に出かけたアッシュ(ブルース・キャンベル)、姉のシェリル、恋人のリンダ、友人のスコットとその恋人シェリーの5人は、道中で森の奥にある小屋に立ち寄る。地下室を物色していたスコットが見つけたのは、『死者の書』と、そこに記された呪文を録音したオープンリールだった。興味本位でテープを再生したことで、森に封じ込められていた悪霊が目覚めてしまう。一人また一人と仲間が憑依されていくなか、アッシュだけが正気を保ち、凄惨な戦いに身を投じることになる。
誕生秘話——資金集めから配給拒否まで
幼馴染二人が10万ドルをかき集めるまで
監督のサム・ライミと主演のブルース・キャンベルは幼い頃からの友人で、二人で協力して低予算の8ミリ映画を何本も撮り続けてきた。『クロック・ワーク』『イッツ・マーダー』といったコメディ作品もその中に含まれる。転機となったのは『イッツ・マーダー』のサスペンスシーンの撮影で、これによってライミはホラー映画への制作意欲を掻き立てられた。ドライブインシアターに通ってホラー映画を研究したのち、彼はある戦略を立てる。まず製作者の関心を引く短編映画を作り、そこで集まった資金で長編を撮る——という二段構えだ。
こうして生まれた短編が『ウィズイン・ザ・ウッズ』だった。製作費は1600ドル。だが長編『死霊のはらわた』の製作には10万ドル以上が必要だった。ライミは友人の弁護士フィル・ギリーズにこの短編を見せたが、ギリーズは特別感銘を受けたわけではなかったという。それでも彼は法律面での助言を与え、ライミはその助言を念頭に置きながら資金集めに奔走した。キャンベルは家族一人一人に頼み込み、ライミは興味を持ちそうな人物を片っ端から当たった。最終的に集まった額は当初の期待には及ばなかったものの、長編を撮るには十分だった。
仮タイトルは『死者の書』。ライミが面白いと感じたH・P・ラヴクラフトの小説から取られたものだ。ライミは撮影直前に20歳を迎え、この撮影計画を自身の「通過儀礼」として捉えていたという。
13人が一つ屋根の下で過ごした極寒の日々
キャストは正式なロケーションスカウトの協力なしに、自分たちでロケ地を探さなければならなかった。当初はライミの故郷であるミシガン州ロイヤルオークでの撮影が検討されたが、最終的にテネシー州モーリスタウンが選ばれる。理由は単純で、テネシー州だけがライミの映像制作に対する意気込みに応えてくれたからだった。
見つかった小屋は他の建物から遠く離れた場所にあった。制作準備の段階から13人のメンバーがそこに滞在し、同じ部屋で眠らなければならなかった。当然のようにメンバー間で意見の衝突も起き、生活状況は厳しかったという。小屋には配管設備がなく、繋がっていたのは電話の配線だけ。撮影終盤には暖を取るために家具を燃やしていたという逸話まで残っている。
俳優を集めるためにライミは「ザ・デトロイト・ニュース」紙に広告を出し、応じた一人がベッツィー・ベイカーだった。『ウィズイン・ザ・ウッズ』に出ていたエレン・サンドワイズも起用された。スタッフのほとんどはライミとキャンベルの友人や家族である。美術面では、チーム内で唯一の大工だったスティーブ・フランケルが事実上一人で美術監督の役割を担い、電動丸のこで小道具を作った。とはいえ小屋のほとんどは、発見された時のままの状態で使われている。
ステディカムが買えなかったから生まれた「シェイキーカム」
本作を語るうえで欠かせないのが、疾走する悪霊の主観映像を生み出した「シェイキーカム」という撮影技法だ。中央にカメラを取り付けた木材を二人で両側から持ち、全速力で走る——ただそれだけの方法である。本来ライミが使いたかったのはステディカムだったが、予算の都合で手が出なかった。つまりこの映画のトレードマークとも言える映像表現は、金がないがゆえに生まれた苦肉の策だったわけだ。実際、後年ライミが同様のショットを撮る際にはステディカムを使用している。
もう一つ有名なのが、終盤で主人公が壁の後ろから悪霊の手に掴まれる場面。あの手はライミ自身のものだ。予算と配役の都合で現場にカメラマンと二人きりになってしまい、急遽そういう演出に変えたのだという。
編集室で作られた「気持ち悪さ」、そしてコーエン兄弟との出会い
撮影を終えたライミの手元には膨大な量のフィルムが残された。編集場所として選ばれたのはデトロイト編集協会で、ここでライミはエドナ・ポールと出会う。そしてポールのアシスタントを務めていたのが、若き日のジョエル・コーエン——のちのコーエン兄弟の一人だった。ポールが映画の大半を編集し、ジョエルは特に小屋での場面を担当している。
ここで生まれた縁が、映画史的に面白い波及効果を生んだ。ジョエルは『ウィズイン・ザ・ウッズ』のやり方——つまり「投資家の関心を集めるための試作映画を作る」という発想——に強く触発され、弟のイーサンと協力して『ブラッド・シンプル』の資金調達にこの手法を応用したのである。ライミの苦肉の策が、コーエン兄弟のデビューを間接的に後押ししたことになる。この編集作業を通じて、ライミとジョエルは友人になった。
編集そのものも一筋縄ではいかなかった。最初のバージョンは117分に達し、脚本上は65分しかなかったことを思えばキャンベルは上出来だと感じたというが、その後より市場向きの85分にまで詰められている。当時ライミは、同じ音響施設でブライアン・デ・パルマが『ミッドナイトクロス』の編集をジョン・トラボルタと共同で行っていることに刺激を受けていた。最も手こずったのは「死体が溶けていく」ストップモーションの場面で、編集には何時間もかかったという。
音響も難物だった。撮影中に正確に記録できなかった音が多く、編集室で録り直す必要があった。切断された肉の音を再現するために死んだ鳥の肉を突き刺したり、キャンベルが録音のためにマイクに向かって何時間も叫び続けたりと、かなり泥臭い作業の積み重ねでこの映画特有の不穏な音響世界が作られている。
なお本作は16mmで撮影されたため、劇場公開には当時の基準だった35mmまで引き延ばす必要があった。とはいえ短編時代に比べれば潤沢な予算があったぶん、この作業は比較的容易だったという。
「引き受けてくれる会社が一つもない」という現実
苦労して完成させた作品だったが、待っていたのは配給会社からの相次ぐ拒否だった。あまりに過激な暴力描写のせいで、アメリカの大手配給会社はほとんどこの映画を引き受けようとしなかった。最終的に権利を獲得したのはヨーロッパの会社だったというのが、いかにもこの映画らしいところである。
転機はカンヌで訪れた——スティーヴン・キングという「権威」
コンペ外上映という賭け
配給の目処が立たないまま、本作はプロデューサーのアーヴィン・シャピロの目に留まる。シャピロはカンヌ映画祭の創設に関わった人物で、その伝手により本作は1982年のカンヌ映画祭でコンペティション外上映される機会を得た。この上映に居合わせたのが、当時すでにベストセラー作家として名を馳せていたホラー小説の帝王、スティーヴン・キングである。
「今年最も獰猛なまでにオリジナルな作品」
キングはこの映画に強い衝撃を受け、「今年最も獰猛なまでにオリジナルな作品」と絶賛した。この言葉はそのまま映画の宣伝文句として使われることになる。USA Today紙が組んだ「キングお気に入りのホラー映画」特集でも、本作は5位にランクインしている。無名の低予算映画が著名作家のお墨付きを得たことで、それまで見向きもしなかった批評家たちの目が一気にこちらへ向いた。イギリスの配給エージェント、スティーヴン・ウーリーもこの評判を聞きつけて動き、最終的にニューラインシネマが配給権を獲得。1983年4月、全米で本格的な劇場公開が実現する。
興行成績——「期待外れ」がひっくり返るまで
初動10万ドル、最終240万ドル
全米公開時、当初はわずか15館でのオープニングとなり、初週の興行収入は10万8000ドルという「期待外れ」なスタートだった。ところが口コミが徐々に広がり、本作は「スリーパーヒット」となっていく。最終的な北米興行収入は240万ドルに達し、これは製作費の約8倍にあたる。
全世界興収「270万ドルから2940万ドル」という幅
興味深いのは、全世界興行収入の数字が資料によって大きく割れていることだ。Wikipediaでも「全世界で270万ドルから2940万ドル」と幅を持たせた記述になっており、これは海外配給の集計方法や資料によって数字が食い違うためである。上限の2940万ドルを採用すれば製作費のおよそ78倍という驚異的な数字になるが、下限であればほぼ北米興収と同程度ということになる。数字がこれほど割れること自体、本作が正規の大手スタジオ作品とは違う「非公式な出自」を持っていたことを物語っていると言えるだろう。
ライミ自身は1990年のインタビューで「海外では大成功したが、国内では振るわなかった」と振り返っており、投資家には出資額のおよそ5倍のリターンがあったと語っている。この証言を踏まえるなら、実態は上限寄りだった可能性もある。
本当の勝負はビデオ市場だった
特筆すべきはビデオ市場での成功だ。1983年のビデオ発売初週、イギリスだけで10万ポンドを売り上げてその週のベストセラービデオとなり、後には『シャイニング』のような大予算ホラー作品を上回る、その年最高のビデオ売上を記録している。劇場よりもむしろホームビデオという新興市場で、この映画の本当の爆発力が発揮されたことになる。
スタッフ・キャスト
- 監督・脚本:サム・ライミ(長編デビュー作)
- 製作:ロバート・タパート
- 製作総指揮:サム・ライミ、ロバート・タパート、ブルース・キャンベル
- 編集:エドナ・ポール(補助:ジョエル・コーエン)
- 音楽:ジョー・ロデュカ
- 特殊メイク・特殊効果:トム・サリバン
- 美術:スティーブ・フランケル
- 出演:ブルース・キャンベル(アッシュ)、エレン・サンドワイズ(シェリル)、ベッツィー・ベイカー(リンダ)、リチャード・デマニンコル(スコット)、テレサ・ティリー(シェリー)
イギリスでの「ビデオ・ナスティ」騒動
メアリー・ホワイトハウスという「敵」
本作の評判を語るうえで欠かせないのが、イギリスで巻き起こった一大論争だ。保守団体「全国視聴者・聴取者協会」を率いるメアリー・ホワイトハウスは、本作を過激な「ビデオ・ナスティ」の代表格として糾弾し、猥褻法に基づく起訴の可能性を持ち出して監督や配給会社を脅かした。当時のイギリスでは、ビデオカセットで販売される作品には劇場公開のような検閲がかからないという法の抜け穴があり、これに対する反発から「ビデオ・ナスティ」というレッテル貼りの運動が広がっていた。
49秒、そして66秒——具体的なカットの中身
イギリスでの劇場公開時、検閲当局は足首の刺傷、シェリーが自分の手を噛みちぎるシーン、目を抉るシーン、死体が切断されるシーンなど、合計49秒分の映像をカットした。この検閲版がそのまま初期のビデオ版としても流通する。1984年のビデオ記録法制定により、本作のビデオ版は事実上の発禁処分となった。1990年に合法的な発売の道が開かれた際も、配給会社とイギリス映画分類委員会(BBFC)との攻防の末、さらに1分6秒分がカットされ、特に木による凌辱シーンが標的にされたという。無修正版が劇場・ビデオともに正式な認可を受けたのは、実に2000年になってからのことだった。
「ナンバーワン・ナスティ」という不名誉な称号
本作はビデオ・ナスティのリストの中でも「ナンバーワン・ナスティ」と呼ばれるほど象徴的な存在になった。批評家ブルース・カウィンも本作を『食人族』や『暴行』と並ぶ、その時代を象徴する悪名高いスプラッター映画の一つとして位置づけている。皮肉なことに、この一連の道徳的パニックはかえって格好の宣伝となり、多くの若者の好奇心をいっそう刺激する結果になった。「危険だから見てはいけない」と言われれば言われるほど見たくなる——この単純な人間心理を、ホワイトハウスの糾弾は結果的に証明してしまったことになる。
批評的評価とフランチャイズの広がり
「称賛」と「悪名」を同時に背負った映画
無名の新人監督と素人俳優による低予算作品でありながら、技術的な完成度の高さは公開当初から驚きをもって受け止められていた。公開当初とその後の批評家の評価はいずれも好意的で、現在では最も重要なカルト映画の一つ、史上最高のホラー映画の一つ、そして最も成功したインディペンデント映画の一つとして評価されている。一方で前述の通り悪名高いスプラッター映画としても語られており、称賛と悪評を同時に背負っていたのがこの映画の面白いところだ。この一作によって、ライミ、タパート、キャンベルの3人はキャリアをスタートさせることになった。
アッシュという文化的アイコンの誕生
本作とそのシリーズは「映画史上最高のカルト映画三部作」と呼ばれるまでになり、アッシュ・ウィリアムズというキャラクター自体が文化的アイコンとして扱われるようになった。『The Essential Cult TV Reader』の著者デイヴィッド・レイヴリーは、キャンベルのキャリアを「カルトのアイドルになるための指針」と評している。この映画以降、ライミとキャンベルは頻繁にコラボレートするようになり、キャンベルはライミの『スパイダーマン』3部作すべてにカメオ出演を果たした。
ゲーム、コミック、ミュージカルへ
フランチャイズはメディアを跨いで拡大した。ゲームでは1984年のコモドール64版を皮切りに、PlayStation・PlayStation 2向けの三部作『Hail to the King』『A Fistful of Boomstick』『Regeneration』が発売され、ライミの弟テッド・ライミが声で参加、キャンベルはアッシュ役の声を担当している。コミックの世界ではアッシュがフレディ・クルーガーやジェイソン・ボーヒーズと戦う『Freddy vs. Jason vs. Ash』、マーベルのゾンビ版アベンジャーズと対決する『Marvel Zombies vs. The Army of Darkness』、さらにはバラク・オバマを守る『Ash Saves Obama』まで刊行された。この節操のない広がり方そのものが、本作のカルト性をよく表している。
映画シリーズとしては、ライミが監督した『死霊のはらわたII』(1987年)、『キャプテン・スーパーマーケット』(1992年)を経て、2013年にはフェデ・アルヴァレズ監督によるリブート作、2023年には5作目『Evil Dead Rise』が公開された。2015年から2018年まではTVシリーズ『死霊のはらわた リターンズ』も放送されている。シリーズを重ねるごとにコメディ色を強め、より奇想天外な方向へと進化していったのがこのフランチャイズの特徴と言えるだろう。
日本での受容——1985年の公開から今も続くカルト人気まで
1985年、日本ヘラルドが配給した「天才的な邦題」
日本での劇場初公開は1985年2月23日、日本ヘラルド映画の配給によるものだった(映倫レーティングはR-15)。「死霊のはらわた」という強烈な邦題を付けた人物のセンスは今も語り草になっており、あるレビュアーは「このネーミングをした人は天才だと思う。昨今は粋な邦題の作品が少なくなった」と評している。1993年7月には日本コロムビアから『死霊のはらわたⅠ&Ⅱ』としてソフトが発売され、2003年にはJVD配給によるリバイバル上映も行われた。allcinemaでは81件の評価で7.0点、filmarksでは1万5000件超のレビューで平均3.5点(5点満点)と、40年以上経った今もレビューが積み重なり続けている作品だ。
賛否が分かれる日本のレビュー
日本国内での評価は一様ではない。あるレビューでは、化け物の一人称視点でカメラが疾走する演出や、血が噴き出ると同時に白い液体も飛び散るという生々しい演出の意図を丁寧に分析し、「低予算なのにスゴい、というよくある褒め方はしたくない」としたうえで高く評価している。一方で「何十年ぶりかに見返したら、当時感じた露悪の新味が古臭くなっていた」と率直に振り返るベテラン映画ファンの声もある。また別のレビューでは、後年のホラー映画『キャビン・イン・ザ・ウッズ』が本作から強い影響を受けていることに触れながら、本作自体の「悪趣味全開」ぶりを肯定的に評してもいる。単純な恐怖映画というより、「作られた映像世界としての楽しさ」に気づかせてくれる一本として愛好されている側面が強いようだ。
ミュージカルという形での再演
2003年にはライミとキャンベルの許可を得て製作されたミュージカル『EVIL DEAD THE MUSICAL〜死霊のはらわた〜』が開幕し、2009年には日本人キャストによる日本公演も行われた。公開から40年以上を経てなお、映画そのものだけでなく舞台という形式でも日本のファンダムのなかに生き続けている作品だと言える。
作品のテーマ
「森の奥のロッジ」という原型
「森の奥のロッジ」という舞台設定は、今日ではやや使い古された感のあるホラーの定番トロープだが、その原点を作ったのはまぎれもなく本作である。人里から隔絶された空間、通信手段の断絶、逃げ道を塞ぐ崩落した橋——外部からの救助が期待できない閉鎖環境という条件設定は、本作以降のホラー映画が繰り返し借用してきた枠組みだ。皮肉なことに、実際の撮影現場もまた電話線一本しか繋がっていない孤立した小屋であり、フィクションと現実が奇妙に重なり合っていた。
恐怖とブラックユーモアの同居
もう一つの大きな特徴は、恐怖とブラックユーモアが同居している点だ。本作の暴力描写は自然主義的でありながらどこか滑稽さも漂わせており、過剰なまでのグロテスクさがユーモアと結びつくことで、恐ろしさと可笑しさが表裏一体となった独特のトーンを生み出している。憑依された仲間が笑い続ける、血が噴き出す量が明らかに人体の容量を超えている——こうした「行き過ぎ」がかえって観客の緊張を解き、笑いに転じる瞬間がある。この感覚は続編以降さらに前面に押し出され、シリーズの方向性そのものを決定づけることになった。
先史・考古学的恐怖というモチーフ
テーマの奥行きという点では、ネクロノミコン(死者の書)を媒介に古代の悪霊が目覚めるという設定が、キリスト教的な悪魔祓いものとは一線を画す「先史・考古学的恐怖」として学術的にも論じられている。ライミがラヴクラフト作品から仮タイトルを取ったことからも分かるように、本作の悪は神学的な意味での「悪魔」ではなく、人類の理解が及ばない古代からの何かだ。実際に本作と『エクソシスト』を比較しながら、古代の遺物や過去の存在が現代に及ぼす脅威という観点から両作を分析する論文も存在するほどで、単なるスプラッター映画という枠を超えた奥行きを持つ作品として、今なお研究対象になり続けている。
おわりに
『死霊のはらわた』の成功譚を振り返って改めて感じるのは、この映画が正反対の力によって同時に押し上げられた、極めて稀なケースだということだ。スティーヴン・キングという権威が扉を開き、メアリー・ホワイトハウスという敵対者が皮肉にも宣伝塔になった。日本でも「天才的な邦題」と「40年前の露悪の古臭さ」という両極端な評価を受けながら、なお語り継がれている。
そして忘れてはならないのは、ステディカムが買えなかったからシェイキーカムが生まれ、カメラマンと二人きりになったから監督自身の手が悪霊の手になったという事実だ。制約が発想を生み、その発想が伝説を作った。賛否を巻き込みながら生き延びてきたこと自体が、この映画の一番の武器なのかもしれない。
