チェーンソーを右腕に装着した男が、中世の城で骸骨軍団と斬り合う——『死霊のはらわた』シリーズ第3作『キャプテン・スーパーマーケット(Army of Darkness)』は、そんなバカバカしい光景を大真面目に描き切る一本だ。恐怖よりも冒険と笑いに大きく舵を切ったこの異色作は、なぜここまで振り切った内容になったのか。公開年をめぐる混乱、邦題の由来、2つの結末の違い、そして製作の裏側にあったスタジオとの綱引きまで、公開当時の資料をたどりながら整理していく。
『キャプテン・スーパーマーケット』——『死霊のはらわた』が中世へ飛び出した理由
チェーンソーを右腕に装着した男が、中世の城で骸骨軍団と斬り合う。『Army of Darkness』、邦題『キャプテン・スーパーマーケット』は、そんなバカバカしい光景を全力の大真面目さで描き切る一本だ。日本語版の作品分類では「アクション/SF/ホラー/コメディ/ファンタジー」と、実に欲張りなジャンルの掛け合わせで紹介されている。『死霊のはらわた』シリーズ第3作でありながら、恐怖の増量よりも冒険と笑いへ大きく舵を切った、史劇ヒーローアクションパロディとも言うべき異色作だ。今回はこの映画がどんな背景から生まれ、なぜここまで振り切った作品になったのかを、公開当時の資料をたどりながら整理してみたい。
「1992年の映画」なのに公開は1993年?
まず面白いのが、「この映画は1992年の映画なのか、1993年の映画なのか」という素朴な疑問だ。英国映画協会(BFI)は本作を1992年作品として登録しており、スペインのシッチェス映画祭にも1992年の出品記録が残っている。一方でアメリカでの一般公開は1993年2月19日。つまりどちらも間違いではなく、「完成・お披露目は1992年、劇場公開は1993年」というだけの話だ。映画祭で先にお披露目してから一般公開までかなり時間が空くのは、この手の作品ではよくあることである。
日本公開は1993年6月26日、そして邦題の謎
日本での公開は1993年6月26日、配給は東宝東和。国内の映画データベースの記録もこの日付で一致している。それにしても「キャプテン・スーパーマーケット」というタイトルはなかなか強烈だが、まったくの的外れというわけでもない。主人公アッシュは現代のスーパー「Sマート」の店員という設定で、映画の冒頭と最後は彼の日常の職場が舞台になる。なお映像ソフトでは『死霊のはらわたIII/キャプテン・スーパーマーケット』という表記が使われることもあり、シリーズ作品であることをより前面に出したタイトルも併存している。誰がこの邦題を決めたのかを示す資料までは見つからなかったが、少なくとも設定には沿ったネーミングではある。
うっかり者の英雄、アッシュ
物語の中心にいるアッシュは、自覚的な勇者では全くない。西暦1300年へ飛ばされ、囚われの身になった彼がまず望むのは、とにかく現代に帰ることだけだ。そのために死者の書「ネクロノミコン」を取りに行くのだが、呪文をきちんと唱えられず、死者の軍勢を呼び起こしてしまう。世界を救う戦いは、実は彼自身のうっかりミスの尻拭いでもあるわけで、このねじれた構造が映画全体の笑いを支えている。銃とチェーンソーを装備すれば見た目は勇ましいが、人の話を最後まで聞く能力までは身につかない。中世の人々に対して尊大に振る舞ったかと思えば、すぐに情けなく取り乱す。このギャップこそがアッシュというキャラクターの面白さだ。
シリーズの変遷——恐怖からアクション・コメディへ
シリーズの流れを見ると、この変化はより分かりやすくなる。低予算・自主製作だった第1作、恐怖と身体的なギャグを融合させた第2作、そして中世ファンタジーへ大きく舞台を広げた第3作。形式上は『死霊のはらわたII』の続編にあたるが、前作のラストとは異なる状況から物語が始まるため、厳密には直接つながっていないという指摘もある。ホラーの続きというより、同じ主人公を使った新しいジャンルへの再出発、と捉えたほうが実態に近いのかもしれない。舞台を城や荒野に移したことで、追跡や戦闘、群衆の動きこそが見せ場になり、映画が観客に求める感情のスイッチそのものが変わった。優劣の問題というより、楽しみ方が変化したと考えるほうがしっくりくる。
制作の裏側——スタジオとの綱引き
制作の裏側も一筋縄ではいかない。サム・ライミは前作『ダークマン』を通じてユニバーサルと関係を築いており、本作もその流れで同社の配給契約に組み込まれた。主要撮影は1991年5月、南カリフォルニアのアクトンで始まっている。企画段階のタイトルは「Medieval Dead(中世デッド)」というシリーズ名との言葉遊びだったが、より幅広い主流の観客に売り込みやすくするため、スタジオ側の意向でタイトルが変更されたと当時の業界誌は伝えている。つまりタイトルの変更は語感の好みではなく、映画館のどの棚に本作を並べて売るか、という配給戦略上の判断だったわけだ。ただし「スタジオがホラーを嫌って監督の映画を壊した」と単純化するのも早計だ。冒険や喜劇寄りの方向性は完成作品の細部にまで行き渡っており、ライミ自身の遊び心とスタジオの観客拡大戦略が、うまく重なった部分も大いにあったと考えられる。
さらに興味深いのが、本作の公開が『羊たちの沈黙』の続編をめぐる別の訴訟に巻き込まれていたという事実だ。1992年9月、製作側のディノ・デ・ラウレンティスとユニバーサルは権利関係の訴訟で和解しており、この和解を経てユニバーサルが本作の北米配給権を確保している。加えて、当初の結末は「暗すぎる」と判断されて再編集・再撮影が行われ、1992年11月にはR指定をめぐる異議申し立ても行われた。結果として1993年1月予定だった公開は2月にずれ込んだ。一本の映画が完成して劇場にかかるまでに、これだけの綱引きがあったというのは、なかなか想像しにくい。
特殊効果の時代——『ジュラシック・パーク』と並走した年
本作が生まれた時期の特殊効果事情も見逃せない。同じ1993年には『ジュラシック・パーク』が公開され、実物大の造形とフルCGの恐竜を組み合わせた映像が世界を驚かせている。まさに特撮技術の転換点だった。その一方で『キャプテン・スーパーマーケット』は、ミニチュア、投影合成、コマ撮りアニメーション、実物の仕掛けを組み合わせて骸骨軍団を作り上げた。「イントロヴィジョン」という、あらかじめ撮影したミニチュア映像の中に実物の俳優をリアルタイムで合成する手法も使われている。CG以前の作品だからといって単純に「原始的」と片づけるのは早計で、人物の位置や照明、模型の見え方、動きのタイミングをすべて計算して初めて成立する、非常に緻密な手作業の積み重ねだった。
わかりやすい例が、墓地から伸びた骸骨の腕がアッシュの口に飛び込むあの場面だ。担当した特殊効果アーティストのハンク・カールソンは後のインタビューで、中が空洞の薄いラテックス製の腕を丸めてブルース・キャンベルの口に収め、空気を送りながら引き抜く様子を撮影し、それを逆再生することで「腕が口に飛び込む」ように見せたと明かしている。恐怖映画であれば身体への侵入は不快感や痛みを強調する方向に使われがちだが、本作ではキャンベルの大げさなリアクションと非現実的な動きが漫画的な可笑しさを生み出す。特殊効果は単なる背景装置ではなく、俳優と一緒にギャグを演じるパートナーだったと言っていい。
キャスト——アッシュを演じたブルース・キャンベルたち
そのギャグを一身に体現しているのが主演のブルース・キャンベルだ。堂々と構えたと思った次の瞬間には取り乱し、強気な表情が一瞬で怯えに切り替わる。この落差こそがアッシュというキャラクターの本質で、最初から間抜けなだけでは「英雄のパロディ」にならず、最初から無敵では「悲鳴」が笑いに転化しない。ヒロインのシーラを演じたエンベス・デイヴィッツ(後に『シンドラーのリスト』などにも出演)は、独りよがりなアッシュに対して中世で失われるものの重みを与える役どころ。アーサー王や賢者、ヘンリー王といった脇役たちが比較的まじめに物語を進めることも重要で、彼らが戦争や予言を真剣に受け止めるほど、アッシュの現代的なノリが浮き上がって見える構造になっている。音楽はジョゼフ・ロドゥカが担当し、テーマ曲にはダニー・エルフマンが参加。脚本はサムとアイヴァン・ライミの兄弟、撮影はビル・ポープという布陣だ。
二つの結末、どちらが「正解」か
結末が複数存在するのも本作らしいポイントだ。劇場公開版ではアッシュは現代のSマートに帰還し、そこでも再び死霊と一戦交える。一方、ディレクターズ・カット版の結末はより具体的で、賢者から渡された薬は1滴飲むごとに1世紀眠るという設定になっている。7滴飲んで元の時代に戻るはずが、うっかり8滴飲んでしまい、目覚めると外は倒壊したビルとがれきが並ぶ荒廃した未来だった、という展開だ。前者は勝利のポーズのまま映画を締めくくるのに対し、後者は最後の最後まで「数え間違える」という、うっかり者としてのアッシュの性格を貫いている。ブルース・キャンベル自身も後年のインタビューで、こちらのオリジナルの結末のほうがキャラクターに合っていると繰り返し語っている。
上映時間も一つに定まっていない。海外のソフト商品情報では劇場版・ディレクターズカット・国際版・テレビ版の4種が収録され、それぞれ81分、96分、88分、90分と長さが違う。日本でも劇場公開版とサム・ライミヴァージョン(別エンディング版)のVHSが同時発売された過去があり、2019年8月発売のBlu-rayでは両バージョンが同時収録されている。1本の映画を版違いで見比べること自体が、ファンの楽しみの一つになっているようだ。
興行成績と評価は割れた
興行的には決して大ヒットとは言えない。北米興収は約1150万ドル、初週末は1387館で約442万ドルというデータが複数の興行データベースで一致している。単純計算すると初週末だけで北米累計の4割近くを稼いだ計算で、初動はそこそこあったものの、その後大きく数字を伸ばすタイプのヒット作ではなかったようだ。世界興収については資料によって集計範囲にかなりばらつきがあり断定はしにくいが、おおよそ2000万ドル台前半というのが目安になりそうだ。製作費も出典によって1100万〜1270万ドルと幅があり、この手の続編・中規模作品にありがちな「数字が資料ごとに微妙に違う」典型例と言える。
評価も公開当時から割れていた。ロジャー・イーバートは前作ほどの面白さはなく、ギャグに反復感があると手厳しい評価を残している一方、批評家ジェームズ・ベラーディネリはホラーと剣と魔法、スリップスティックコメディを混ぜ合わせた楽しさを評価した。それでもジャンル映画としての評価は高く、サターン賞では「1993年度作品」の対象としてホラー映画賞を受賞している。現在のRotten Tomatoesでは批評家支持率68%(92件のレビュー)に対して、観客支持率は10万件以上の評価をもとに86%、Metacriticは59点(32件のレビュー)。批評家より一般観客のほうがかなり好意的な数字になっているのも面白いところで、封切り時の賛否と、長年かけて積み上がったファンからの評価が、必ずしも同じ方向を向いていないことがよく分かる。
ここで一つ注意しておきたいのは、「世界興収から製作費を引けば損益が分かる」という単純計算はできないということだ。興行収入には劇場側の取り分や宣伝・配給コストが含まれるため、額面だけを見て「大成功」「大赤字」と決めつけるのは危うい。劇場での成績が控えめでも、その後の映像ソフトや配信といった二次展開で長く売れ続けるタイプの作品は珍しくない。
アッシュはなぜ愛されるのか
もう少し踏み込んで考えると、この映画の核心は「平凡な男が英雄になる話」というより、「英雄っぽい格好を手に入れても、平凡な欠点までは消えない話」にあるように思う。銃とチェーンソーを構えれば見た目は一人前のヒーローだが、注意深く人の話を聞く力までは身につかない。薬の滴数さえ正確に数えられない男が、それでも英雄として担ぎ上げられてしまう。格好いい決めゼリフの直後に間抜けなオチが待っている構成が繰り返されることで、「格好よさ」そのものがギャグの一部になっていく。ホラー映画的な緊張よりも、次にどんな馬鹿げた攻防が飛び出すかという期待のほうが前面に出てくるのは、こうした構成の積み重ねによるものだろう。
受容のされ方という点でも、本作は一つの国だけで語れる作品ではない。スペインの映画祭で世界にお披露目され、イギリスのBFIは「サム・ライミ入門」の一本として本作を紹介し、日本では独自の邦題とソフト展開の歴史を歩んできた。国境を越えて観客を獲得してきたのは間違いない一方で、英語圏を中心とした評価サイトの集計をそのまま「世界中の総意」と読み替えるのは少し乱暴だろう。
公開から30年以上経った今も派生展開が続いているのも興味深い。ダークホースコミックスからはコミカライズや続編コミックが出版されており、映画一本で完結する物語というより、版違いのソフトやコミックまで含めて「じわじわ広がったカルト作」として楽しまれてきた経緯がうかがえる。もし『死霊のはらわた』の1作目、2作目をまだ観ていないなら、先にそちらから追いかけてみるのもおすすめだ。低予算ホラーとして恐怖に振り切った1作目、恐怖と身体的なギャグが同居し始める2作目を踏まえてから本作を観ると、「なぜここまで振り切ったのか」という納得感がぐっと増す。
まとめ
『キャプテン・スーパーマーケット』は、誰もが手放しで絶賛する完成度の高い名作、というタイプの映画ではない。予算の数字は資料によって揺れ、公開の裏には別作品の訴訟が絡み、批評は割れ、結末さえ一つに定まらない。それでも、この不揃いな成立過程こそが作品の魅力と切り離せないように思う。改めて振り返ってみると、この映画の見どころは次のようなところに集約できそうだ。
- ホラーの主人公が、中世で「英雄ごっこ」をしながらも間抜けさを隠しきれない可笑しさ
- CG以前ならではの、ミニチュアと実写を組み合わせた特殊効果の手作り感
- 勝利のSマート版と、薬の数え間違いで未来にたどり着く版という、性格の異なる2つの結末
- スタジオとの綱引き、他作品の訴訟まで巻き込んだ、一筋縄ではいかない製作の裏側
恐怖と冒険、英雄への憧れとその滑稽さが、一つの身体の中でせめぎ合っている。アッシュが最後に勝ち誇っても、遠い未来で途方に暮れていても、彼は決して完璧な勇者にはならない。その不完全さを、映画自体が誰よりも楽しんでいるように見えるのだ。完璧なヒーロー像に少し疲れたときこそ、チェーンソー片手に空回りし続けるこの男を見返してみるのも、悪くない選択だと思う。
